近未来を思わせる街。
 はじめて訪れたそこは、超高層ビルやマンションのひしめく、メトロポリスだった。
 湿度80パーセントのアジアのニューヨーク、人口約700万人が東京都の半分の面積に住む、地震のない街、香港。住処を上へ上へと伸ばしていった結果、街は手塚治虫原作のアニメーション映画「メトロポリス」さながら、雑多な人種の行き交う無国籍な世界となっていて、瞬時に惚れた。
 英語と広東語が飛び交い、見上げれば途方もなく高い建造物のオンパレード。スペースの狭さに負けじと、様々な看板が建物から道路に突き出ている。いまにもジャッキー・チェンがどこかのホテルの窓から飛び出して看板にぶら下がり、目の前でアクションを繰り広げてくれそうな街だ。
 
 香港島を見渡せるソルズベリー・ロードにほど近いホテルへ着いたのは午後4時。出発間際まで仕事をしていたためか、高揚する精神とはうらはらに身体は疲れていて、旅のお供となった高校時代からの友人Aと、すぐにマッサージの予約を入れた。
 ヴィクトリア港に面しているインターコンチネンタル・ホテル内の《THE SPA》へ徒歩で向かう。夕方にもかかわらず、気温は30度を超えていて、太陽が眩しく、蒸し暑い。歩道の隅でフラフラになりながら、地図を片手にAと方向を確認していると、小さな男の子と散歩中の父親が、英語で話しかけてくれた。
「どこへ行きたいの?」
「(地図を指して)こ、この辺なんだけど」
「ぼくらも向かうので、一緒に行きましょうか」
 暑さで思考回路がショート寸前のうえ、方向音痴な私たちに、この申し出を断る理由は見つからない。ホテル近辺まで、のろのろと彼らのうしろをついて行くことにした。
 初夏の香港は天候の移り変わりが激しいので、親子は傘を持っていた。スターウォーズのジェダイマスターのように、それをぶんぶんと振り回しながら、楽しそうに前を歩く。
 5分ほどで大きなホテルやショッピングアーケードの集中する海岸沿いに出た。淡いグリーンに染まる海の向こうに、香港島が広がる景色は本当に素晴らしい。
 彼らに礼を言って、ニュー・ワールド・センターの前で手を振った。二度と会うこともないのに、ささやかな時間を共有できる一期一会の場面に、旅行の面白さはあるとあらためて思う。
《THE SPA》のある3階でエレベーターを降りると、アロマの優しげな香りがじんわりと周囲に漂っていた。一時間の全身マッサージでHK$750。普段は全く訪れない類の場所なので、高いのか安いのか比較することもできないが、自分へのご褒美だと自己暗示をかけて、興奮気味に中へ入る。
 一番大きなふたり用のスペースがたまたま空いていたため、そこへ案内された。ほの暗い照明に静かな音楽が流れていて、日常の疲れがほぐされていく心地よさに、すぐにうとうとしてしまう。幸せな気分にしてくれる指を持つ彼女たちの技に、つかの間の天国をゆっくりと堪能した。
 様々な種類のお茶が飲み放題で、ジンジャークッキーも食べ放題と聞いて、食いしん坊な私とAは次から次へと味見を繰り返し、《THE SPA》をあとにする。
 リフレッシュしてすっかりと元気を取り戻すと、今度はものすごい空腹感に襲われてしまった。夕食の場所をリサーチする余裕もないほどのはらぺこ具合で、ニュー・ワールド・センター内にある観光客向けの中華レストランへ突進。「とりあえずビール!」と店員に向かって日本語で叫ぶ私を、「通じないから」とAが笑う。メニューを指してオーダーしたあと、最初にテーブルに置かれた料理はあんかけチャーハンだった。
 この味付けが絶妙の美味しさで勢いがつき、次から次へと出される料理を「うまい、うまい」と連呼しながら食べ尽くす。
 空腹で飲んだビールが五臓六腑にしみたのか、センターを出るときには千鳥足になっていた。そんな酔っぱらいの目に、夜空へ高く伸びるきらびやかな夜景が飛び込んでくる。
「うわー! きれいだね!」
 Aが嬉しそうに言う。若いカップルが街灯の下で抱き合っていても、絵になるという夜景の威力はすごい。
 歩くたびに汗がにじむほどの気温で、すぐに喉が乾いてしまい、オープンカフェでくつろいでいる人々に混じり、再びアルコールをオーダーした。
 ネオンのまたたく香港島を肴にダラダラと会話し、ゆるゆると飲むアルコールがまずいわけがない。
 高層マンションのたくさんの灯りを眺めながら、マフィアに狙われている男の部屋があり、離婚寸前の中年夫婦がその階下で喧嘩をしていて、隣では若い男女が週末を楽しむパーティーを開いていたら面白いのになぁなどと、頬杖をつきながら想像した。
 実際には、家族で仲良くテレビを見ているだけかもしれないが、そんな場面もありそうな気にさせてくれるメトロポリスを、ずいぶん遅くまでAと見つめて、初日の夜は更けていった。

 翌日は朝早くから、現地のガイド孫(ソン)さんと共に観光ツアーへ出かけた。この日、六人乗りのワゴン車に乗るのは私たちだけだったのか貸し切り状態。ツアーというよりもなんだか気軽なドライブのようだ。
 日本語のペラペラな孫さんと会話をしながら、いくつかの神社やお寺を観光した。中でも有名な《黄大仙廟(ウォン・タイ・シン・ミュウ)》では、日曜日ということもあってか、線香の煙が充満する中で、正座をして額を地面につけお祈りをする、たくさんの人々の姿を見ることができた。
《黄大仙廟》は占いでも有名なスポットだと聞いて、Aと私は手相と人相、風水を見てもらうことにする。プライベートがまるきり不景気な三十路越えの過去を、当てまくっていく占い師に呆気にとられながらも、未来にはなにかしら良い出会いがあると知ってひと安心、単純なものだ。しかし風水的に見ると、私は二匹、Aは八匹の金魚を、部屋の中心から南の方角で飼わねばならないのだそうだ。飼ってもすぐに殺してしまいそうな予感がする。良い未来を手に入れるのは、なかなかに難しい。
 飲茶の昼食をとった後、フェリーで香港島へ向かった。そこからピーク・トラムで、香港が一望できる《ヴィクトリア・ピーク》を目指す。このピーク・トラムは、45度の急勾配をぐいぐいと登って行くかなりワイルドな乗り物。窓からはすぐ側に立つ高層マンションの部屋の中まで丸見えだ。
 晴れと豪雨が交互にやってくる気まぐれな天候で、《ヴィクトリア・ピーク》に着いた時には、スコールのような雨が降りはじめた。垂れ込める分厚い雨雲に、一番高いマンションの天辺が、ぼんやりと隠れている。
 屋根のある休憩ポイントから見下ろしていると、すぐに雲の切れ間から光が射しはじめる。グリーンに染まった海と、どこまでもくっきりと見える香港の全貌は、どこか現実離れしていて、丹念に描き込まれたコミックのヒトコマみたいだった。
 
 香港の発端という古い港町、《香港仔(アバディーン)》へワゴンで移動。小さなサンパン船に乗って、今度は海の上から香港島を望む。港の側には高価なヨットが並び、その向こうには、錆び付いた黒い漁船が何隻も停泊していた。その漁船の側をサンパン船で通り過ぎると、漁師が船の中でご飯を食べている姿が見える。先祖代々、船上で生活している人々が、いまでも海の上で暮らしているのだと孫さんに聞いて驚く。丘に建つ真新しい高層マンションの下には、海で生活している力強い人々の現実がある。その差が得体の知れないパワーとなって、香港という街をつくっているのだろう。
 サンパン船を降りてから、同じ地区にある《レパルス・ベイ・マンション》へ向かう。中央がぽっかりと空いたマンションの不思議なデザインは風水によるもので、龍をイメージして建てられたものなのだそうだ。
 香港では、風水を信じる人たちが多い。引っ越しをするにも、マンションを購入するにも、建物の方向や家具の配置などを風水で決める。お金持ちほど良く信じていると孫さんが力説する。やはり金魚を飼ったほうがいいのだろうか……(飼い方から勉強しなければならないが)?
 ロンドンへ留学した経験のあるAは、重厚な木製の床や高い天井に大きな窓の、英国の名残のある《レパルス・ベイ・マンション》内の空間にとても喜んでいた。その中で、イギリス式のアフタヌーンティを味わう。
 窓の外ではウエディング姿のカップルが、芝生の上でさまざまなポーズをとり、写真撮影をしている。スタイリストとカメラマンがつき、指示を出されてはその通りの格好をして決めポーズを繰り返す。そのほほえましい様子を眺めながら、マフィンを口に運び、ゆるやかに流れていく時間を楽しんだ。

 ツアーはホテルのある地区のDFS前で終了した。別れ際、孫さんと握手を交わして礼を言う。孫さんを見送ってから、DFS内で少し買い物をすることにして、Aは一階の化粧品売場へ、私は時計売場へ向かった。
 DFS内の時計売場で、しばらくの間うろうろしていた私のもとに、化粧品売場を物色していたはずのAが、息も荒くやって来た。「かっこいい店員がいる!」と目を輝かせて耳打ちしてくる。売場からAに引きずり出されて向かった場所には、風貌のきれいな男がにこやかに接客している姿があった。アジア以外の血が混じっているような端正な顔立ちで、清潔感のある髪型、黒い制服姿。けれども、彼の周囲に漂っている空気はどこかなまめかしく、ほかの男性店員とは、立ち居振る舞いが明らかに異なっていて、なにかがおかしい。私の脳裏にある二文字が浮かんだ。
「ゲイ?」
「えええ?!」
「っぽいような……。わかんないけど」
 日も暮れて、夜の予定もあり、ホテルへ戻るためにDFSを出た。夕闇の街の中を歩いていると、「もう会えないのよね〜。ていうか、見れない、か」とAが寂しげに呟いた。
「なんだか、切ないねぇ」
 私が言うと、切ないねぇ、とAも答える。孫さんにも二度と会うことはないだろうし、ゲイ疑惑の店員とも、友達になれる時間は私たちにはない。いまにも消えてしまいそうな淡い月が、街のネオンの上に浮かんでいた。

 夜の7時過ぎ、ホテルの部屋がノックされ、ドアを開けるとNちゃんが笑顔で立っていた。会えなかった時間が、再会したとたんすぐに消えてしまう。長年の友人とはいいものだなと、思わずにはいられない瞬間だ。
 結婚して現在は北京に住んでいる、Aとも共通の十年来の友人Nちゃんが、この夜、香港まで会いに来てくれることになっていた。彼女のパートナーは香港の人で、現地に住む彼の弟とその彼女と、5人で食事をする約束をしていたのだ。
 一時間ほど経ってから、Nちゃんの義弟偉光(ワイゴン)くんと彼女の小玲(シウリン)ちゃんが、ホテルのロビーまで迎えに来てくれ、カタコトの英語で挨拶を交わす。偉光くんとは日本でのNちゃんの結婚式で一度だけ会ったことがあるが、はたして私のことを覚えているのかは怪しい。それでも笑顔で私たちを歓迎してくれた。
 初対面の小玲ちゃんは背が高く、肌がつるりと白く、目がとても大きくて本当にかわいい。思わず「かわいい!」という日本語が飛び出してしまう。偉光くんも小玲ちゃんも、カジュアルなジーンズ姿でとてもおしゃれだ。ふたりとも背が高く、並んでいるとかなりかっこいい。小玲ちゃんと目が合うたびに、日本語で何度も「かわいい!」と私が言うので、意味が伝わるのか小玲ちゃんは笑ったり照れたりしていた。

 タクシーに乗り、香港島にある広州料理のレストランへ向かう。
 小玲ちゃんは英語も広東語も北京語も話せるが、偉光くんは英語と広東語しか話せない。Nちゃんは北京語がペラペラだが英語に自信がなく、Aも英語がすらりとでてこないと言うし、私は日本語以外話せない。その結果、レストランでは様々な言語が飛び交うことになってしまった。
 香港の人の多くは、食事の時にアルコールを飲まない。飲みたい時は、食事のあとに、アルコール類のあるバーへ繰り出すのが習慣だと聞いて、何杯もお茶をおかわりしながら料理を待つ。その間、観光したスポットを身振り手振りで話した。
 大きな丸いテーブルに並んでいく料理は、豚の臓物のスープや牛肉を炒めたもの、クラゲなど。どれも日本では馴染みのない、素材を生かした薄味だったが、なかなかに美味。特に川魚の揚げ物はスナック菓子のようで、やみつきになるほど美味しかった。
 スノーボードを楽しむために、偉光くんたちは昨年の冬北海道を訪れていたらしい。雪が珍しくてとても感激したと、料理を食べながら教えてくれる。
 偉光くんはその夕食を全てごちそうしてくれた。今度日本へ来たときには、お腹いっぱいになるまでごちそうすると約束を交わしながらレストランを出る。
 香港の夜景がどうしても見たくて、再び《ヴィクトリア・ピーク》へ舞い戻ることにした。偉光くんたちとはピーク・トラムの乗り場で別れ、Nちゃんと三人で再びトラムに乗る。もう雨はあがった様子で、45度の角度に倒れながら、灯りに照らされた高層マンションの間を登って行く。
 蛍光灯と白熱灯の色が交互に混じり合い、丹念にライトアップされている眩い夜景は信じられないほど美しく、ロマンチックだ。
 香港への引っ越しが決まっているNちゃん夫婦は、高層マンションの30階に物件が決まっている。今度は実際に住んでいる人の部屋から、夜景を見渡せるぞとたくらみながら、下手な写真を撮りまくった。

 小さな商店でドリンクを買い、ホテルに戻って乾杯する。話題はやはり、Aが見初めた店員の話になる。
「ご飯とかに誘っちゃいなよ。明日行ってみようか?!」
「ホントにかっこよかったのよ……」
 Nちゃんの力強い言葉に、夢見がちなAの視線が部屋に舞う。
「そうだよ、どうせもう二度と会わないんだから! メアドだけでも!」
 いかにしてあの店員を誘うべきか、熱い議論を戦わせてみても答えは出ない。12時を過ぎる時間になって、Nちゃんが去ってしまっても、Aは寝入るまで、かっこよかったなぁと呟き続けていた。
 
 最終日は、マカオまで行ってみることにした。
 朝、ロビーで再びNちゃんと合流し、タクシーでフェリー乗り場へ急ぐ。香港からマカオまでは船で一時間ほどで着く。その日の気温も朝から30度を超えており、じっとしていても額から汗が流れてくる。
 メロンソーダのような色の海に揺られながら、私はうたた寝をしてしまった。目が覚めた時には、ガンジス川を思わせる色に変化していて、どこにいるのだっけかと寝ぼける。
 フェリーを降りてから、地図を片手にバスに乗った。ポルトガル語と中国語か広東語らしき看板が、建物のあちこちに掲げられているが、どこで降りたらいいのか全くわからなくて、どきどきしてくる。
 しばらくすると、マカオの観光スポットの中心的存在《セナド広場》が見えてくる。バスも停車駅で止まり、ほっと胸をなでおろす。
 日射しを浴びた《セナド広場》の建築物は、目に痛いほどカラフルだ。そこから波状にデザインされたモザイクの地面をゆっくりと踏みしめ、徒歩で《セント・ポール大聖堂》へ向かった。 
 大聖堂は1835年の火事でほとんどが焼けてしまい、映画のセットのように前面しか残っていない。
 有名な観光スポットなので、あちこちで記念撮影が行われており、
「絶対私たち、知らない人の写真に入ってるよね」
 とNちゃんが笑う。どうせならカメラ目線で見知らぬ他人の写真に残ってやろうとAと盛り上がり、モデル歩きをしながら階段を降りる。そんなくだらないゲームをしながらげらげらと声をあげて笑う時間が、遠い昔に経験した修学旅行のようでなんとも楽しい。
 大聖堂の横には森が広がっており、細い坂道を登って行くと《モンテの砦》がある。17世紀のはじめ、信徒が街を守るためにつくった要塞で、大きな大砲が海に向けてあちこちに配置されてあった。
 うだるような暑さの中を歩き続け、マカオが一望できるスポットに着き景色を見下ろす。香港のような高層マンションはあまりなく、赤茶けた屋根に灰色の壁の低い建物が雑多にひしめいている。窓に干された色のはげた洗濯物や、路地裏の暗い雰囲気も見えて、汗のしみこんでいる生活臭が、街中に漂っている。観光スポットを外れると、かなり危なそうな印象を受けた。

《モンテの砦》から《セナド広場》へ戻り、遊郭だったという《フェリシダーデ通り》を散策していると、金物屋の店先に並んだ蓮の花のライトが目に止まった。直径が15センチほどの大きさで、陶器でできた花びらは桃色のグラデーション。真ん中に埋め込まれた小さな電球が、その花びらをほんのり照らしている。
「かわいい。欲しい!」
「ああ〜、好きそうだね〜!」
 子供みたいに店先を凝視して叫ぶ私に、NちゃんとAが笑いながら言う。
 店をきりもりしているのは、おしゃべり好きな中年の女性で、ひっきりなしに話しかけてくるけれど、意味はまるでわからない。HK$80のライトを手に入れ、大声でしゃべり続ける女性に見送られながら、店をあとにした。
 赤い飾り窓が建ち並ぶ小さな通りを抜ける頃、どうしてもクーラーのある場所でビールが飲みたくなって、かなり探すはめになった。
 なぜか、これがなかなか見つからない。レストランのドアを押しては「ビールはありますか〜?」と訊ね歩く。結局クーラーのある場所は諦めて、再び《セナド広場》の中心へ戻り、隅にあったオープンエアの小さな店でビールを注文した。汗を流しながら、青空の下でいっきに喉へ流し込む。
 ビールはかなり冷えていたにもかかわらず、すぐにぬるくなっていく。ポルトガルの血を受け継いでいるような顔立ちの店員も、木陰の椅子に座って涼んでいた。お菓子みたいな洋館を背景に、ビールを飲む平日の午後。明日のいまごろは飛行機に乗っていて、日本なんだよなぁと思うと、少し寂しくなってくる。
「帰りたくないなぁ。なんかこのままこの時間でとまってほしいなぁ」
「ね〜。私も仕事したくない〜!」Aが切実な表情で頬杖をつく。
 それでも時間は過ぎていく。やっとの思いで席を立ち、「よっこらしょ」と三人とも声に出してしまい、うわぁ、ばーさんだ、と声をあげて笑った。

 午後3時、お土産を買うために、マカオから快速フェリーで香港島に直行する。
 買い物をするつもりだったのに、ウォン・カーウァイの映画にあった《ヒルサイド・エスカレーター》や、カフェに目を奪われて目的を忘れる。たくさんのパブやカフェのある細い路地の階段を目的もなくぐるぐると散歩し、Nちゃんおすすめのアイスクリーム・チェーン店《XTC ON ICE》で、気さくな店員と会話を楽しみ、マンゴーアイスをつつく。なんだか食べたり飲んだりしてばかりだ。
 香港の物価は日本と同じくらいだが、住むとなれば住宅事情がかなり難しいのだろうなと思いながら、地下鉄の駅へ向かった。ちょうど仕事帰りの人々が家路へ向かう夕方で、構内も混雑している。それでもなぜか、行き交う彼らに精神的な余裕を感じるのはなぜだろう。実際に住んではいないからかもしれないけれど、日本で感じるせっぱ詰まった構内の空気が、ここには無い。香港に住んでいることを誇りとしていて、自由に自分を表現して生きているという雰囲気を、みんながまとって歩いている。
 思えば出会った誰もが、笑顔で私たちを受け入れてくれた。心に余裕がなければ、笑顔にはなれないものだ。確かにいろんな性質の人がいるはずで、短い旅行期間にたまたま出会った人たちがそうだっただけなのかも知れないが、肩がぶつかれば「Sorry」とすぐに言葉にできる小さな余裕は、生きていくうえで大切なことだと実感した。

 地下鉄に乗り、デパートやショッピングスポットの集中する《コーズウェイ・ベイ》へ。気まぐれにウインドウ・ショッピングをしていると、ひどくお腹が減ってしまい、韓国料理店の看板にあった、ビールの大きな写真につられて、香港にいながらキムチの世界へ飛び込んでしまった。クーラーのきいた涼しい店内で口にできた冷えたビールは、旅のラストにふさわしい夕食の味となる。
 ホテルへ戻ったのは夜の8時過ぎ。「最後もマッサージでしめたい」という初日のAの提案で、実はこの夜も部屋まで来てくれる足裏マッサージの予約を入れていたのだ。
 ぐりぐりと足裏を押されるたびに、奇声をあげる私をみんなが笑う。女性のマッサージ師に胃腸が弱ってると指摘され、私は大きく頷いた。「したいこと全部したよねぇ」とAが満足そうに言う。朝からかなりアクティブに動き回った自分たちを、「えらい、えらい」と褒めあった。
 マッサージを終えてから、Nちゃんとデザートを食べに行く約束だったので、私が奇声を発している間、彼女はテレビのMTVを眺めたり、本を読んだりしながら部屋で待っていてくれていたのだが、Aがとうとうまどろみを通り越し、激しい睡魔に襲われてしまったようだった。朝から歩きっぱなしで無理もない。「わたし、脱落するわ〜」というAのゆるやかな声に送られて、私とNちゃんは夜の《ネイザン・ロード》へ向かった。
 華やかなネオンの通りをのんびりと歩き、デザートがおいしいという店に入って、注文したお互いのものをつつきあう。甘い物が好きなAのために、テイクアウトできるかと店員に訊ねて、ハート型のマンゴープリンを持ち帰ることにして店を出た。
「行ってみようか?」
 ふいにNちゃんが微笑んだ。
「行くってどこに?」
「DFS! わたしも見たい」 
 閉店間際のDFSへ入り、こそこそと棚の影から店員を探す。かなり怪しい二人組だ。けれども、白い棚の間から見えたのは、黒い制服姿の女性だけだった。
「ああ〜。いないね、残念!」
 外へ出てからも、ウィンドウ越しに店員を探してみたけれど、やっぱり姿はなかった。
「香港に引っ越したら、また来てみてよ!」
「そうだね。来てみる」
 それからNちゃんと店員は友達になって、疑惑がはっきりするかも。ゲイじゃなかったら、Aと遠距離恋愛がスタートして……、などと現実にはならないとわかっている妄想を楽しみながら、ホテルまでの道のりを歩いた。
 また来るよと言ってホテルの前でNちゃんと別れた。しばらく会えないけれども、その時間は再び会った時に消えてしまうことを知っている。だから、まるで明日にでもすぐに会えそうな錯覚に陥るほど、別れ際もあっさりとしたものになった。今度Nちゃんと会えるのがいつになるのかはわからないが、その時の笑い話にこの旅行のことがプラスされることは間違いない。
 部屋へ戻ると、めずらしくAが小さないびきをかいていた。閉じた瞼が少し微笑んでいるように見える。プリンを冷蔵庫へ入れて、タバコを吸った。吸いながら、広東語を覚えるか、それとも英語を話せるようになったほうがいいのか、とりあえず金魚を部屋のどこへ置くべきかと迷う。
 本当に短い旅行期間だったにも関わらず、普段の生活では想像できないパワーで動き回ってしまった。実を言えばAも私も、ひとりでは旅行先の公園などで、一日中ダラダラするのが好きなのだが、Aとの海外旅行がはじめてだということと、現地でNちゃんに会えるという楽しみに、かなり背中を押されてしまった。それから、たくさんのささやかな出会いもあった。
 日本へ戻ってからも笑えるような体験がたくさんできたから、たまにはこんなふうに動き回るのも悪くない。
 さまざまな人種の暮らす、アジアのニューヨーク。香港に住んでいる人たちをもっと知りたい、このメトロポリスを思わせる街での生活が、現実にはどんなふうなのか、肌で感じ、自分で実感し、確かめてみたいと思う。
 嫌いになるまで知りたいと思える、海外の街がまたひとつ増えた。

松田 桂(まつだ・けい)
1971年11月24日生れ。33歳。札幌市在住。好きな作家は中勘助、サガン、いしいしんじ、ジュンパ・ラヒリなど。趣味は散歩と昼寝と空の観察。楽しみは読書、映画、音楽を聴くこと、友達と宅飲みすること。

ホームページ http://tsubuyaki.fool.jp/